ー前略ー
・「倭人」の凶暴な性格は、火山のせい!?
この時代、中国人のイメージする日本人は、とにかく「凶暴」だった。
まず、鄭舜功訪日の30年ほど前、1523年に起きた「寧波事件」(寧波の乱)の衝撃は大きかった。
日本の有力大名、大内氏と細川氏がそれぞれ仕立てた遣明船の乗組員らが、
中国・寧波の町で抗争を繰り広げ、一帯を騒乱に巻き込んだのである。
そして、1550年代には、倭寇が中国沿岸部を荒らし回り、「嘉靖大倭寇」と呼ばれる。
実際には、倭寇の中核には中国から日本に渡った密貿易者や犯罪者も多く含まれていたと言われるが、
当時の中国から見れば総じて「倭人」だった。鄭舜功が日本へ向かった1556年はまさに、この「大倭寇」がピークを迎えていた。
なぜ、日本人はこんなに凶暴なのか? 鄭舜功は、日本列島の自然にその原因を求める。
南西諸島の硫黄島に上陸して噴煙を上げる火山を実見し、九州・豊後でおそらく温泉の噴き出すさまを目にした鄭舜功は、
風水の観点から、こう論じている。
〈この日本列島は、陰が極まったなかで生じたもので、硫黄島などを隆起させたものは、
けだし陰が極まり陽が混濁し、気が鬱屈して蒸散したものである。
しかし〔陰の気は〕漏れ尽きることはなく、〔日本列島で〕発現すると乾燥した「火」の性格を持つようになる。
山の勢いはゴツゴツとして荒々しくなり、日本人の凶暴な気性を産みだしている。(中略)人もまた大地の気に感応して生まれるという。
それゆえ日本人の性格が凶暴なのは、まさに地の気がそうさせているのである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.118)
そして、日本人は性格が凶暴であるがゆえに、礼節と秩序を重んじている、とみているのだ。『日本一鑑』には、こうある。
〈海寇(海賊)は〔日本では〕「破帆(バハン)」、あるいは「白波」と呼ばれており、発覚すると一族が
彡(^)(^)しにされる。
〔日本の風俗では〕強盗の禁令が厳しいために、夜に門にかんぬきを掛けなくても、盗みは少ない。
人々は〔強盗を〕賊と罵り、恨みを忘れない。その風習は武張ってはいるものの、仏を重んじ、文を好む。
〔日本人に対する〕要領を得ようとするならば、文教を用いるべきである。〉(『戦国日本を見た中国人』p.123)
人命を軽んじる凶暴な力によって秩序が保たれ、その秩序のもとで文化が尊重される日本。
そんな日本人に向かい合うときは、たんに武力に頼むのではなく、「文教」すなわち文化政策をもってせよ、というのである。
・命を軽んじ、礼節と秩序を重んじる
日本人の文化として、『日本一鑑』で特に大きく取り上げられているものがある。それは、「日本刀」だ。
もともと、中国には朝貢貿易で大量の日本刀が持ち込まれていた。
その品質は高く評価され、日本の重要な輸出品だったのである。
15~16世紀には、1回の遣明船で3000本から多い時で3万本以上が、中国にもたらされていた。
倭寇として海を渡った日本人は、刀で多くの民を殺し、その凶暴なイメージが明代中国人の脳裏に焼き付いていた。
しかし鄭舜功は、ごく普通の日本人は、必ずしも殺傷のために刀を用いていたわけではないことにも目をむけている。
〈刀が鋭利であることを知るも、〔その刀で人を〕殺さないことをもって宝とする。(中略)
そうした刀を佩いて年老いるまで人を殺さなければ、すなわち酒を供えて僚友・親戚に命じて、書を残してその刀を子に伝える。
僚友や親戚もまた、酒を供えてそれを祝う。不殺の刀といい、宝となる。〉(同書p.129)
ー後略ー
現代ビジネス 7/20(木) 7:04配信